COVER STORY

豊田喜一郎
置かれた状況で最善を尽くす

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 由井常彦氏と私の共著『豊田喜一郎伝』(名古屋大学出版会)は、当初トヨタ社内で配布されたもので、社内版には英語訳もある。そのタイトルは、最終的にCourage and Change(勇気と変革)に落ち着いたが、最初は、訳者のエドムンド・スクリプチャック氏から“Writing  Straight with Crooked Lines”(曲線によって直線を描く)というタイトルが提案された。なるほど、喜一郎の生涯は、時代の流れや周囲の思惑に振り回され、幾度となく本人が希望する道をたどることができなかった。訳者の目から見ても、このことが特に印象的だ ったからであろう。

   誰もあまりやらない、
   またやりがたい事業をものにするところに
   人生の面白味がある

 喜一郎は1894(明治27)年6月11日、発明王として知られる豊田佐吉の長男として生まれる。八幡製鉄所が操業を始めたのは1901(明治34)年だが、彼が多感な時期を過ごした時代は「鉄は国家なり」といわれていた頃で、こうした時代の雰囲気もあって、大学では工学部機械工学科で学ぶ。しかし卒業後は、父の意向もあって、父が設立した豊田紡織に入社する。あいにく機械工学の知識を活かせる船舶などの分野ではなく、繊維に関連した企業、しかもその経営者になることを期待されてのことだった。

 入社後ほどなく、喜一郎はイギリスのプラット社などで実習する機会を与えられる。当初は1、2年間の滞在予定であった。しかし、プラット社での滞在もわずか2週間ほどで、急きょ帰国させられる。豊田紡織の姉妹会社が発注していた紡績機械がアメリカから到着したので、工場の現場実習は日本でもできることになったからである。この後も喜一郎は夫婦で上海に移住したかと思えば、また急きょ日本に呼び戻されている。

 一方で、当初は紡績企業の経営者として期待されていたはずなのに、喜一郎はみずからの機械工学の知識を活用して自動織機の完成にも大きく貢献することになる。この自動織機完成への努力・奮闘こそが、喜一郎による自動車事業への創出へとつながっていく。そればかりか、イギリスや日本での工場実習の経験によって、喜一郎はアメリカで生み出されていた製造現場の実態把握の方策にも触れていた。これがあったからこそ、戦時下にトヨタが工場改革に踏み切った時、喜一郎はこの改革を「強く支持」する。これが後に大野ライン、ひいてはトヨタ生産方式の基盤につながっているのだ。

 このように、喜一郎の人生はまさに曲がりくねった道を行くがごとくであった。けっして彼は目的に向かってまっしぐらに邁進できたわけではない。しかし、後から振り返ってみると、曲がりくねった道や回り道のような経路が、のちの自動車事業の創出・育成に意味があったかのように見えてくる。敬虔なキリスト教徒の英訳者スクリプチャック氏からすれば、喜一郎という人物は、神が与えた使命・目的を果たすべく「曲線で描いた直線」を真摯に突き進んだ、といった風に見えたのではなかろうか。本人は大いに悩んでいたが、迂回していたように思っていても、それこそが使命を達する「まっすぐな道」だったのだと。

 戦後日本の礎をつくった偉大な経営者の一人として喜一郎も評価されるようになったとはいえ、その足跡をたどってみると、目標に向かって一直線に邁進できたわけではない。彼の片言隻句や行動の一端を取り上げて示唆を得ようとするのではなく、おのれが置かれた状況の中で最善を尽くし、目の前の課題と格闘し続けた姿勢こそ学ぶべきではなかろうか。みずからの使命をまっとうする「まっすぐな道」を切り開いていくためにも。


●構成・まとめ|立崎 衛
●イラスト|ピョートル・レスニアック
*謝辞|本イラストレーションの制作に当たっては、トヨタ自動車広報部にご協力いただきました。


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